俳句の偉人・正岡子規の生涯を伊集院静が描く
夏目漱石のことを書いた「ミチクサ先生」を読んだので、同じ著者(伊集院静)の「ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石」も読んでみました。
この2冊を読む前は、なんとなく、夏目漱石よりも正岡子規の方が、昔の人…のように感じていましたが、お二人は同級生。教科書の子規の写真(横顔の)はしっかりイメージに残っていますが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」がNHKでドラマ化された際に、主人公秋山兄弟の幼馴染である子規を香川照之さんが演じたので、そのイメージも重なっています。そのイメージ通り、活動的で熱い人だったんだ!と今回あらためて思いました。
年表で概ね足取りを理解できるとしても、やはり物語として読むと、伊集院さんの目を通した「ノボさん」の姿が現れてきて、味わい深いです。
最近の俳句ブーム(というのかわかりませんが)もあって、俳句に興味がある人も多いと思います。そういう方でも子規の生涯についてはあまり知らないかも…?そんな人にもおすすめの本です。
「俳句」だけでなく「野球」も好き
正岡子規はペンネームで、本名は常規(つねのり)さんです。じゃあなんで「ノボさん」なのかというと、幼名が「升(のぼる)」だったから。近しいひとは、「ノボさん」と呼んでいます。
松山の武士の家系で、藩の祐筆だった叔父から書を習ったということもあり、書道が上手でした。子規が生まれたのは大政奉還の年。時代は急激に江戸から明治に変わっていく時期でした。幼いころに父親が亡くなり、母の実家の助けを受けながら、母方の祖父の大原観山の塾で漢詩も習っていました。非常に物覚えがよく、優秀だったようです。しかし、やがて士族も廃止になりました。数年の間に、武士はなくなってしまった…。
父がいないため、元松山藩主の久松家の育英事業「常盤会」の給費生になることも、学問を続けるうえで大事なことでした。無事、給費生となった子規は、東京の帝国大学(東大)の予備門に合格します。このころ上京してくる予備門の書生(学生)の中には、帝大を出て「大臣・政治家」を目指すという例も多かったようですが、子規は自分はどうもそういうタイプではないのではないかと思ったようです。坪内逍遥「当世書生気質」に衝撃を受けて「俳句や小説」などの文芸の道を究めていこうとしていました。
また、東京でベースボールに出会い、学問の傍ら、白球を投げ、打ち、戦うこのスポーツ夢中になりました。けっこう上手で、あちこちのチームから試合に呼ばれる助っ人選手だったようです。
常磐会の同郷の仲間や地元の後輩たちに野球を教えるとみんな面白いと楽しんでくれました。運動好きでなかった子規が、なぜそんなに夢中になったのか…。伊集院静氏の説明に腑に落ちましたが、やはり「武士」の子だった彼らは、「合戦」=「試合」でパワーを発散するのが楽しかったのかもしれない…。全く意外な視点でしたが…。
寄席で講談・浄瑠璃・落語を聞くのも好き
子規は、落語・講談や浄瑠璃が好きで、よく寄席にいきました。同じ予備門に通う夏目金之助(漱石の本名)と出会ったのも寄席でした。主席で合格した秀才の意外な一面を知って、子規は金之助に興味を持ったようです。
学校の授業のない夏休みに、子規はそれまで書き溜めていた漢文・漢詩や短歌・俳句をまとめた「七草集」の編纂にとりかかりました。
漢詩は金之助も好きでしたので、子規がやろうとしていることのすごさが、あまり説明しなくてもよく分かったみたいです。二人の境遇や性格はだいぶ違うのですが、純粋なところなどが似ていたのか、波長があったようで、友情は育まれていきました。金之助は、子規の俳句を文学に高めていこうとする姿勢を認め、子規は子規で英語ができて優秀な金之助のことを敬っていたようです。
しのびよる病気の影
いつもパワフルな子規ですが、予備門の書生だったとき、友達と鎌倉方面に旅行に行き、そこではじめて喀血したことがありました。
それは一時的なもので、本科に進学した子規は体調が回復するとまた精力的に活動します。野球も俳句もやり、東京の後見人の陸羯南という人の発行する新聞「日本」に原稿を書いたりもし、一方で夜遅くまで執筆し、「七草集」を完成させたりもします。そこでまた喀血…。どうも当時不治の病であった結核であることなどを悟ったようなのです。診断はそこまで出ていませんでしたが…。
「あしは時鳥(ホトトギス)になってしもうたぞな」
心配して様子を見に来た金之助に子規はいいます。というのも時鳥のくちばしの中は赤いので、喀血した自分と重ね合わせていたのです。号も「子規(ホトトギスのこと)」としました。
子規は完成した「七草集」を金之助に託し、読んでもらいます。金之助も真剣に10日もかけて読み、「一読三嘆した」と伝えます。子規はそれを喜び、感想の手紙などからも金之助が文学的に子規の試みを理解していることを感じました。金之助は俳句を作るようになり「漱石」という号を使いました。子規はそれを認めて、趣味が同じであることを喜んだようです。
活動的な大食漢
病気を抱えた身でありながら、子規という人は思いついたらどんどんやる。じっとしていないの人のようで、読んでいて本当にハラハラしてしまいます。
いよいよ帝大に進学し、哲学を専攻するのですが、向いていないことに気づき、国文学に転科。さらには、新聞「日本」の記者になることにして、退学してしまいます。
ずっと優等生の金之助とは違う道を進む子規ですが、いつも意欲にあふれていて、自分の信じる道を進んでいる感じです。
子規は小説も書くのですが、幸田露伴にはあまりいい評価をしてもらえず、そちらよりは俳句の道を目指すのです。
その子規のバイタリティを支えているのは食欲かも。鰻や牛鍋、まんじゅう、みかんなどよく食べます。
記者になってから、東京・根岸に母八重と妹律を呼んで、3人で暮らし始めます。とにかくお母さんは「ノボさん」のしたいように万事整えることを最優先するのです。大勢のお弟子さん的な俳句仲間を家に呼んで、飲み食いする時も多いのですが、食材調達など記者の給与だけでは大変です。でも、節約をかさねすべてかなえてあげている。
嫁いだ先から戻った妹律も、兄を支える母を支えます。この律の私の脳内イメージは、前出のドラマ「坂の上の雲」(子規の幼馴染の秋山兄弟の話)で律を演じた菅野美穂さん一択です。
私がいいなあと思ったのは、根岸の家に金之助が遊びに来た時のこと。他の友達とは違って、大騒ぎしたりあちこち連れまわしたりせずに、しきりに子規の健康を気遣い、「静養しなさい」と忠告して、出されたお茶もほかの人のように一気に飲み干したりせず、半分だけ飲んで「かまわなくていいですよ」と律たちに言い、静かに話し込んでいたというシーン。子規にとっては金之助は「畏友」でした。2人の間には静かで満ち足りた時間が流れていたんじゃないかと思います。
子規と金之助の松山での同居生活
子規について全然知らなかったエピソードも多いのですが、従軍記者として日清戦争の現場にまで行っていたそうです。病気なのにやりたいことはどんどんやるんです。そして無理がたたって、帰国の途中で船で喀血。神戸に上陸しようとしたときに意識を失って倒れてしまいました。
発見した記者仲間のおかげで病院に運び込まれ、なんとか回復しますが、子規はその時「死」というものを近くに感じたのだと思います。
退院後、子規は松山に帰るのですが、ちょうどそのころ金之助が松山の学校で英語教師として働いていたので、ちゃっかりその赴任先の一軒家へ押しかけて、一階の二間を自分の部屋として使わせてもらうことにします。
突然の申し出だったにもかかわらず、金之助が子規の要望を受け入れた…。それくらい子規のことを気に入っていたんでしょうね。
松山は子規の故郷付近なので、知り合いが多くいますし、みな子規に俳句の指導などをお願いしたくてしょうがない。静かに暮らしていた金之助の生活は一変し、多くの人が子規のもとに訪れます。二人の住む家は「愚陀仏庵」と名付けられ、金之助も「漱石」の号で子規の句会に参加するようになります。松山のあちこちを句会の仲間と吟行もしたようです。子規はその後、また上京することにしたので、金之助との同居は52日間で終わりました。けれど金之助の結婚前でしたし、気ままな2人暮らしは貴重な時間となったようです。
俳句を革新した子規の文芸への思いは「漱石」へ…
子規が成し遂げたことを、実はあまり理解できていないのですが、与謝蕪村の俳句の評価を高めたというのはまず理解できました。また、「編集者」としても名人だったということです。当時は子規のやっていたような作業を表す名称はなかったようですが、やっていたことはまさに「編集」でもあったようです。古い俳句を見つけて、分類して、整理して、まとめあげる…。また、柳原極堂という人が句誌をつくると言うので、さまざまに相談に乗り、指示を出し、句誌「ホトトギス」が松山で創刊されました。のちに極堂さんが編集や実務をやりきれなくなったと申し出たとき、子規の指名で、後を引き継いだのは高浜虚子でした。
また、短歌の創作にも熱心で、「歌よみに与ふる書」を発表したり、俳句観をつづった「俳諧大要」を出版したり、いろいろ活動をしていました。
そしてまた、病は悪化していきます。松山のあと熊本に赴任し、次はイギリスに留学するという金之助は、渡航前に子規の根岸の家を訪れます。それが二人があった最後の機会となりました。
子規は病床で「仰臥漫録」を書き始めました。子規の病名は脊椎カリエスというもので、当時治療法はなく、激しい痛みもあったといいます。日々妹の律や母が献身的に看護して、闘病生活は続いていましたが、35歳(数えで36)の若さで亡くなりました。
金之助はロンドンでその知らせを虚子らからの手紙で知ります。どんなにか悲しく、つらい気持ちで受け止めたことでしょうか…。帰国して、帝大の教師になったあと、金之助は「夏目漱石」として、最初に書き上げた小説「吾輩は猫である」を、子規が立ち上げにかかわり、虚子が引き継いだ「ホトトギス」に発表しました。そのあとの「坊ちゃん」も「ホトトギス」に掲載。これらが評判となり、漱石の文豪への道が開けました。一度は子規も書こうとしていた小説なるものを、若くしてこの世を去った友のために書き上げたのかもしれないと感じました。そう感じさせるような伊集院静氏の筆致なのだと思います。小説家・夏目漱石が誕生するには、子規との友情は欠かせない要素…そんなふうな印象が残りました。でも、できることなら仲良く長生きしてほしかったですよね。もっと年を取ったときに互いにどんな作品を残したのか、興味深いですし…。
子規の業績や交流の深かった人などは、書ききれないほどたくさんあるし、たくさんいらっしゃるので、興味を持った方はぜひ小説「ノボさん」を読んでみてください!